サム・ペキンパーの映画監督としての経歴

 

サム・ペキンパーは第二次世界大戦で海兵隊として参加した後、大学で演劇を学んでいます。そしてテレビ局に入局し、プロデューサーのウォルター・ウェンジャーの紹介で、後にクリント・イーストウッドの出世にも繋がるドン・シーゲルの弟子となります。

 

彼の下で助監督として4本の映画を撮影しながら自身でも脚本を執筆し、それがテレビ局の目に留まって西部劇シリーズのディレクターに任命されます。サム・ペキンパーの映画監督としての経歴は、1961年の「荒野のガンマン」から始まります。その翌年には「昼下りの決斗」を公開し、それまでの実績に伴う確かな評価を得ることに成功します。

 

しかし1964年に作られた「ダンディー少佐」では、編集を巡ってプロデューサーサイドと揉めてしまったため、しばらく映画から離れることになります。「ダンディー少佐」では彼の編集への影響力が少なかったのか、サム・ペキンパーらしい血生臭い戦闘が少ないという評価の声が多いです。

 

映画界から干されてしまったサム・ペキンパーですが、それから1年程度の1965年のドラマでやはり確かな実力を見せつけたことによって、早々の復帰が実現します。1969年に公開した「ワイルドバンチ」では、彼の代名詞ともなる暴力的な表現が全面的に押し出された作風となり、新しい道を切り開いた一方で否定的な意見も数多く出るという賛否両論の結果となりました。

 

そんな事情の上でも、彼は暴力的だけでなく内面を様々に表し、世界各地で高い評価を得る作品を数多く世に出します。特に「わらの犬」は「ワイルドバンチ」よりも暴力的な作品で、それと同様に批判的な意見と称賛する声の両方が大きくなりました。

 

本場アメリカではあまりヒットしなかったものの、外国で記録を生み出した作品もあります。中には有名俳優や歌手と連携した作品もあり、話題性も高いものでした。ただ数多くの映画を撮影しながら、サム・ペキンパーはアルコールや麻薬中毒になっていきます。トラック運転手を題材にした「コンボイ」を撮影している間はその症状が酷くなります。

 

元々スケジュールや予算を守らなかった状態がさらに酷くなったため、映画の大ヒットとは裏腹に監督として遠ざけられるようになってしまいました。そのためその次の「バイオレント・サタデー」が彼の映画監督としての最終作品となります。そしてそれからしばらく経った1984年の年末に、59歳でその生涯を終えました。

サム・ペキンパー監督作品の特徴について

 

サム・ペキンパーはアメリカ合衆国出身の映画監督で、1960年代から70年代にかけて「バイオレンスの巨匠」と呼ばれていました。その名の通り激しい暴力描写が作品の特徴でしたが、その一方で独特の詩情あふれる描写も得意としていました。1984年に59歳の若さで亡くなり、もう新作を見ることはできませんが、今も根強いファンがいます。

 

彼の代名詞とも言える暴力的なものへの関心がいつ頃、どのようにして芽生えたかは定かではありませんが、映画史的にはマカロニ・ウエスタンの影響が強いと言われています。マカロニ・ウエスタンとは1960年代から70年代にかけてイタリアで製作された西部劇のことで、低予算でセンセーショナリズムを煽るためにしばしば残忍な流血シーンなどが描かれました。実際、初期のペキンパー作品もその大半が西部劇です。
ただ、彼の監督作品が多数公開された1960年代後半から70年代前半のアメリカはちょうどベトナム戦争を戦っていた時期で、人心も荒廃していました。そのため、彼の暴力性もそうした時代の殺伐とした空気を反映したものであると見る人もいます。

 

技術面における彼の特徴と言えるのが、細かなカット割りとスローモーションの多用です。そんな「ペキンパー・スタイル」とでも言うべき彼の作風が確立されたのが、1969年に製作された『ワイルドバンチ』です。

 

20世紀初頭のアメリカ西部における強盗団の生きざまを綴ったこの作品では、吊り橋が落下するシーンや機関銃で次々と男たちが倒れていくシーンなどをアングルを変えながらスローモーションで執拗に描き、公開当時は「死のバレエ」などと評されました。こうした描写は、のちのSFアクション大作『マトリックス』などに影響を与えたとされています。

 

一方、ストーリー面においては、『ワイルドバンチ』をはじめとして『ゲッタウェイ』や『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』など、しばしばアウトサイダー的な人物を主人公として描く点に特徴があります。

 

それが最も顕著に表れているのは本人自らがベスト・フィルムと認める1970年製作の『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』で、西部劇であるにも関わらずこの作品には自動車が登場し、主人公は交通事故に遭ってしまいます。不器用な生き方ゆえに時代や周囲の人々とうまく折り合いがつかず、孤立してしまう者たちへの強い関心が、彼の映画作りの原動力となっていたようです。