Introduction

圧倒的な演出スタイルと斬新な編集方式で、それまでの映画演出の様式を一変させた伝説の映画監督サム・ペキンパーのドキュメンタリー映画がこの秋、完全公開となる。南北戦争時代、北軍兵の頭皮を剥ごうとした南軍兵への復讐を描いたデビュー作『荒野のガンマン』、時代に取り残されたアウトローたちの壮絶な最後を描いた映画史に燦然と輝く傑作『ワイルドバンチ』、スティーヴ・マックイーン主演の男と女の逃走劇『ゲッタウェイ』、戦争の狂気と哀しみを描きカンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受賞した『戦争のはらわた』など、革新的なスローモーション撮影によるバイオレンス描写で“血まみれのサム”という異名を持つサム・ペキンパー。シネフィルや映画製作者の間ではまさに映画の教科書・神話のような存在だが、同時に、撮影所の商業主義やプロデューサーとの絶えることのないトラブルの多さから、鬼のような怒れる存在と考えられてきた。そういったスキャンダルやトラブルも影響し、心臓発作で亡くなる59歳までに監督した作品は14本と多くは無い。  法律家の父が支える家父長制の厳格な一家に生まれた少年、詩を愛する繊細な青年、鬼軍曹の仮面を被った監督、そして薬物に苦しみながらも多くの仲間を愛し愛された男。多くの証言から、一人の男の孤独な戦いが硝煙と共に立ち上がる。 没後30年を経た今もなお、その妥協のない徹底した映画監督としての姿勢も相俟って、世界的に多くの著名な映画人に影響を与え続けている。ラフ&タフ(粗野で無頼)な監督としていまや伝説となっている彼の人生。その肖像は悲劇と喜劇、成功と挫折、そして愛に満ちたものだった――。

監督を務めたのは、全580ページ・1050枚の写真を掲載したペキンパーの伝記とも呼べる「PASSION&POETRY SAM PECKINPAH IN PICTURES」(日本未出版)を執筆した、映画史家であり映画製作者でもあるマイク・シーゲル。eBayで自身の厖大なコレクションの一部を売り、その資金と情熱だけで撮り上げた本作は、映画製作や演出技法、ハリウッドでのスキャンダルや自身の問題についてペキンパー自らが語っている映像はもとより、これまで事実と思われていた事件の検証、そして噂と嘘(=ジョーク)、ペキンパーの肖像を映画史家として真摯に、総括的に捉えた稀有な作品に仕上げている。

ペキンパーはいまや多くの著名人からのリスペクトを集める人気監督だが、本作では彼と共に生きた人間以外は一切出てこない。そこには晩年のペキンパーを始め、羽目を外し、衝突し、大酒を飲み、怒鳴り怒鳴られ、時を共にした俳優や製作者、そして家族がいる。

時には愚痴であり、悪戯話し、おおよそ信じられない狂気の沙汰がイキイキと語られる本作は、1960~1970年代の冒険心に溢れた映画作りの時代へわたしたちを導き、あの頃の情熱と美学を「忘れちまったのか?」と問い掛ける。

Who is Sam Peckinpah?

有名なカリフォルニアの開拓者や裁判官や弁護士一族の出身であるサム・ペキンパーは、1953年にドン・シーゲル監督のアシスタントとなり、映画界に入った。二年後、シーゲルは彼を新しく始まったTVシリーズ西部劇「ガンスモーク」の脚本家として推薦した。ほどなくしてペキンパーはTV界でもっとも売れっ子の脚本家兼監督のひとりになり、「ライフルマン」と「遥かなる西部」の両作品に関わった。

ランドルフ・スコットとジョエル・マクリーを起用した二本目の長編映画『昼下がりの決斗』(1962)で、ペキンパーは才能ある監督としての地位を確立した。それは二人の年老いた西部男と消えゆく西部を感動的に描いた作品で、彼の父親へのオマージュであり、西部劇の最高傑作のひとつとなった。この成功によってペキンパーは、1963年には人気監督の一人となったが、それから一年も経たずして、トラブルメーカーの一人としてブラックリスト入りしていた!

チャールトン・ヘストン主演による彼の次の作品『ダンディー少佐』の予算が不意に30%削減され、ペキンパーはついに、彼が編集したものを断りなく30分以上もカットしたプロデューサーのジェリー・ブレスラーと争い始めた。この映画は作品的にも興行的にも不振だった。それから数か月後、ペキンパーは『シンシナティ・キッド』に取りかかったものの、たったの4日で解雇され、その先何年も監督の仕事につけなかった。

1968年、彼はようやく復帰のチャンスを掴む。時代に取り残されたアウトローたちの壮絶な最後を描いた西部劇『ワイルドバンチ』がそれだ。そのどぎつい暴力描写は痛烈な批判を受けた反面、彼の天才監督としての名声を不動のものにした。そして、ここから『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(1970)、『わらの犬』(1971)、『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』(1972)、『ゲッタウェイ』(1973)、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973)と、彼の黄金時代が始まった。

1972年までにペキンパーはすでにハリウッドを代表する映画監督になっており、“血まみれのサム”や“バイオレンスのピカソ”と言われていた。彼自身はシリアスドラマや詩に関心があったにもかかわらず、映画界は彼を〝粗野で無頼の(ラフ&タフ)映画監督”とみなしていて、アクションもののオファーしか来なくなっていた。この大酒飲みの映画人は、自らの罠に陥っていたのだ。

『キラー・エリート』(1975)の製作中、ペキンパーはコカインに手を染めた。飲酒癖で常に問題を引き起こしていたのに加え、このドラッグがきっかけで本当の転落が始まった。自己破滅的な生き方に拍車がかかったのだ。『戦争のはらわた』(1976)を監督した後、ペキンパーの薬物問題が明るみに出、『コンボイ』(1977)撮影中の常軌を逸した行動のために、彼はその後5年間、監督の職を失うこととなる。

1983年、彼はすっかり立ち直ったことを証明してみせた。『バイオレント・サタデー』を期限どおりに予算内で完成させたのだ。だがもはや遅すぎた。彼はすでに健康を害していたのだ。ジュリアン・レノンのミュージックビデオを2本監督してわずか数週間後の1984年12月28日、サム・ペキンパーは心臓発作で亡くなった。